史跡めぐり・大島編

郷土の文化と史跡を紹介しています

●史跡めぐり(上大島・大島)編

 大島地区の散歩コースをご紹介します。距離はおよそ2万歩、お弁当を持って、 ゆっくり散策してみませんか。大沢の歴史と触れ合ってみてください。 大沢公民館を起点終点とし、相模川自然の村公園周辺で昼食をとって 約3時間程度のコースです。

 ☆本文中、詳細な地図をGoogleマップで紹介しています。


1.廿三夜塔 (跡)

廿三夜塔
(1)廿三夜塔(にじゅうさんやとう)  ⇒ [Googleマップ]

 昔は、今のような太陽暦ではなく、太陰暦で月の二十三夜に講中の人々が集まり、飲食を しながら月の出をまつ風習がありました。
 娯楽が無い時代には、五穀の豊作家内安全を 祈る大切な行事でした。
 二十三夜の本尊は、勢至菩薩と言われ、その夜は精進すること、 と言い伝えられているところもあります。
 【太陰暦から太陽暦への変更で、 明治5年12月2日が明治6年1月1日となりました】

廿三夜塔・現在の様子


「廿三夜塔」その後の状況について(1)

 平成26年8月に確認したところ石碑は
残されていましたが、鳥居や祠はとりこわ
され、残っていませんでした。(左写真)

「廿三夜塔」その後の状況について(2)

 大沢地区上久保にあった二十三夜塔及び稲荷神社を確認するため、平成29年(2017年)7月11日午前8時頃に現地へ行きました。ご覧(下写真)の様に二十三夜塔も撤去されありませんでした。

廿三夜塔 廿三夜塔・現在の様子


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2.持ち上げ観世音

持上観世音
(1)持ち上げ観世音  ⇒ [Googleマップ]

 上大島、井上醤油屋裏の県道沿いに、持ち上げ観世音の石仏があります。(写真中央)
 安永5年(1776年)2月、久保郷、坂上の講中18人が仏教にたいする帰依と家内安全、 五穀豊穣を祈願して建てたものと言い伝えられています。
 その後、明治初年の頃より、 石仏を持ち上げて、私事を占う風習が始まり、誰言うとなく持ち上げ観世音と呼ばれる ようになりました。
 精神を統一して、御本体を持ち上げ、自分の念じたことを占い、 それが観世音に聞き入られると軽々と持ち上がったそうです。
 観世音の横に田名の信者により立派な石碑が建てられました。(写真左側)


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3.寺小屋や学舎からはじまる大沢の小学校の軌跡


大沢小学校の系統図

 大沢には幾つかの寺小屋や学舎から始まり、合併や分離を経た小学校の変遷が見られます。

(1)九沢側の小学校
 寺小屋から始まった「九明学舎」や「内出学舎」が合併して、1873年(明治6年)塚場白椚に「九沢小学校」が発足した。1880年(明治13年)3月、塚場1738(大沢団地前)に移り新築落成した。1892年(明治25年)「尋常九沢小学校」と改称され、1895年(明治28年)に「尋常大沢小学校」と改称された。1902年(明治35年)に「尋常高等大沢小学校」と「尋常大沢小学校」が合併のため閉校。

(2)大島側の小学校
 1873年(明治6年)に「髙原学舎」が大島3193に発足し、1875年(明治8年)7月、大島3199(中ノ郷)に「大島小学校」として創立された。1893年(明治26年)4月「尋常大島小学校」と改称、1894年(明治27年)「尋常高等大島小学校」と改称、1895年(明治28年)「尋常高等大沢小学校」と改称された。1902年(明治35年)に「尋常高等大沢小学校」と「尋常大沢小学校」が合併のため閉校。

(3)大沢小学校
 1902年(明治35年)に「尋常高等大沢小学校」と「尋常大沢小学校」が合併し、現在地に「尋常高等大沢小学校」が創立された。1941年(昭和16年)4月29日 相模原町の誕生に伴い、校名を「相模原町立大沢国民学校」と改称。1947年(昭和22年)4月1日 校名を「相模原町立大沢小学校」と改称。1954年(昭和29年)11月20日 市制施行により校名を「相模原市立大沢小学校」と改称、現在に至る。
 1977年(昭和52年)3月 「大島小学校」新設伴い分離。児童600名転出。
 1980年(昭和55年)3月 「九沢小学校」新設に伴い分離。児童580名転出。

(4)大島小学校
 1977年(昭和52年)3月 「相模原市立大島小学校」が創立。現在に至る。

(5)九沢小学校
 1980年(昭和55年)3月 「相模原市立九沢小学校」が創立。現在に至る。

  ※上図「大沢小学校の系統図」出典:大沢小学校創立100周年記念誌 おおさわ (H13.12.1)


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4.渓松園(旧:横浜水道ポンプ場跡)

(1)横浜水道ポンプ場の歴史

 明治維新になって都市化された地域へ、井戸水だけでは賄いきれず、水道管を敷設して給水する 必要性に迫られました。幕末から貿易港として開港され、外国人が多く住む横浜に神奈川県では 水道敷設工事を計画。イギリス工兵中佐パーマーに設計を依頼。明治18年工事着手同 20年10月横浜市へ通水を開始。同23年4月県から横浜市へ引き継がれました。
 さらに昭和5年から人口増加に伴い相模原市を縦断する、水道道を買収拡幅し太い水道管の 埋設が行なわれました。当時津久井郡千木良村にダムを造り取水し、横浜市へ送水する案が計画。 その協議がまとまるまでの応急策として、大島に臨時揚水ポンプ場と送水井(下のポンプ場から 水を上げ、送水調整するところ)を造り丸いドームの建物を建設し、取水する案が浮上しました。 千木良村の反対などを知った、田名大沢代表15名は横浜市水道局を訪問し、工事促進の陳情と 全面協力を申し出ました。
 工事は、昭和6年3月着工、同8年7月完成。 175馬力渦巻式横型ポンプ 4台 将来の給水人口55万人を想定し通水。
 当時の農村は、糸価の下落で不況のどん底であり、この土木工事の労力は地元で提供し、 労賃となって農家の経済を潤しました。
 しかし、相模湖が完成し津久井分水池より 下九沢分水池をたて、古山の沈殿池への隋道が整備、横浜市へ通水されるに及び16年間に わたるポンプ場の使命を終わったのです。
 道志川の清流は、日本一うまい水と折り紙を つけられ、水道はもちろん外国航路の船に積み込む飲料水になりました。


渓松園 (2)相模原市老人福祉センター 渓松園(けいしょうえん)
   ⇒ [Googleマップ]

 現在渓松園のある場所は、昭和6年に旧横浜水道大島送水井として揚水を開始し、昭和28年まで 横浜水道の水源として、最終的には横浜へ一日15万トン以上もの水を送水していた施設でした。 そして長い間の役割を終えたこの施設は、昭和47年に相模原市の老人福祉センタ-として 生まれ変わりました。60歳以上の健康な方が、入浴・囲碁将棋・読書・ビリヤード・カラオケ・ ゲートボールなどを利用しています。利用時間は午前9時から午後4時まで、個人利用者へ マイクロバスによる送迎があります。無料ですが、予約制です。老人会などの団体は、 大型バスによる送迎があります。原則としては、第4月曜日と、年末年始が休所日になります。


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5.大島坂連絡通路(自然の村方面)

 渓松園のすぐ先、駐車場の先に相模川方面を見下ろす展望台があります。 その先に相模川自然の村公園へ通じる連絡階段があります。  ⇒ [Googleマップ]

 相模川自然の村公園で昼食でもいかがですか。
 大島キャンプ場、古民家園、清流の里、他
 ⇒大沢散歩 「相模川自然の村公園」に、詳しく掲載しています。


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6.敷石住居跡(大島坂連絡通路近隣)

敷石住居跡
(1)敷石住居跡  ⇒ [Googleマップ]

 大島に大正の終わり頃地域の人にて発見され、縄文時代中期終末~後期の敷石住居跡が 発掘されました。約4,000年前のもので、深さ2メートル位、穴の直径3~5メートル、 中に玉石を敷き真ん中には炉を築き、上には茅を敷き湿気を防いだものです。屋根は、 地面から高さ2メートルくらいのところから葺き、さらに2メートルほどの高さに茅で 切りつま葺(ぶき)にしました。また、ここには、石器や土器が多数見られましたが、現在は、 埋没してうかがい知るすべはありません。
      (写真提供:相模原考古学研究会 香村会長)


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7.大嶋坂

大嶋坂
(1)大嶋坂 金森徳次郎の筆跡  ⇒ [Googleマップ]

 自然石に彫られた碑は、右側には憲法記念、左側には金森徳次郎。裏側には昭和22年 6月1日竣工金森氏の自筆です。
 工事は、昭和18年頃より始まり、地盤は固く 絶壁のところはツルハシで崖を崩し道を広げていきました。田んぼがあるなしに関わらず、 地区一丸となっての大工事でした。
 現在では遊歩道となっている大島坂のこの道は、 キャンプ場へ通じる観光道路と考えがちだが、れっきとした農道で上大島住人の汗と涙が しみこんだ勤労奉仕による農道なのです。
 憲法制定担当国務大臣である金森氏が、 当日のテープカットを行った。
 なお、大島坂新道が出来、その記念の碑は 前相模原市長の舘盛静光氏の直筆です。
 ※金森徳次郎については⇒「大沢公民館とは」に、掲載しています。


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8.諏訪神社

諏訪神社
(1)諏訪神社  ⇒ [Googleマップ]

 所在地:大島字上ノ原 594番地
 創 立:永正年間(約5百年ほど前)創立といわれています。 再建は宝永年間。旧大島村、 上九沢村の両村の開基の総鎮守として式内石楯尾神社と言い伝えられています。(縁起記録なし)
 例 祭:8月27日 (現在は、27日の前の日曜日に行われています。)



(2)大島諏訪明神の獅子舞(市登録無形民俗文化財・県指定無形民俗文化財)

 大沢地域には、古くから伝わる獅子舞があります。毎年8月の諏訪神社と御嶽神社の 例大祭には、地域の住民の協力の元に保存会の皆さんが舞を奉じます。各神社の境内は 古式ゆかしい舞と笛の音が流れ、数百年の時代の重みを現代に語りかけてきます。
 詳しくは ⇒「郷土の文化」をご覧ください。


庚申塔
(3)庚申塔と芭蕉の句碑

 諏訪神社横にあり、庚申等に刻まれる。
 寛延元年発願、文化6年供養 上大島 講中51人が造立。
 《ものいえば 口びるさむし 秋の風》



(4)諏訪神社禰宜(ねぎ)の娘の話

 詳しくは ⇒「大沢のむかしばなし」をご覧ください。


牛頭観音

(5)牛頭観音

 大島の堺松近くに、牛の頭を彫った牛頭観音があります。
 明治の初め頃、牛の病が流行し、多くの牛が犠牲になりました。 その供養塔として立てられたものです。


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9.長徳寺

長徳寺
(1)長徳寺  ⇒ [Googleマップ]

 所在地:大島756番地
 由 緒:天文2年(約480ほど前)
 再 建:宝暦9年10月 諸堂宇および記録焼失。宝暦10年庫裏再建。 その後 本堂再建。改修は昭和48年。


(2)歴史上の人たち
○ 鳳山良長和尚
  元、武田の家臣。墓は、歴代和尚の中にある 
○ 中里但馬
  鳳山良長和尚と時を同じくして大島に移り住んだのではと推測されています。大島村創設の 人といわれています。新編相模国風土記稿によれば、信州の人で子孫は代々平十郎を名乗り 名主を努む、とあります。永禄8年9月没 子息 織部が名主となり子孫代々その職を嗣ぎました。 関東においては、天文年間は戦国時代のさなかで、相模国を平定した北条氏康(足利学校復興) が甲斐の武田晴信としばしば戦火を交え、永禄12年三増(みませ)の大合戦につながっていきました。 そして、今も子孫はこの上大島に在住しています。墓は五輪塔 仏教の教え=空風火水地 と 掘られています。

○ 下九沢の俳人 西瓜(さいこ)
 九沢八坂神社 通称 天王森と呼ばれるこの境内に俳聖芭蕉の有名な句碑があります。
 「秋布可起隣ハ何乎寸流人ぞ」 =秋深き 隣は何を する人ぞ=
 裏面には 「ものうきも 是におさまれ虫の声 西瓜」 と刻んであります。

  西瓜は、安斉氏 名は 庄兵衛
 長徳寺に墓があり 「ゆくゆくは 雨にならふか 秋の風」と辞世の句が刻まれています。
○ 中里三蔵さん
 長徳寺境内本堂前に中里春畝先生の顕彰の碑が建立されています。
  「矢は折れて 石に声あり枯れすすき」
 氏は中里 名は三蔵臥牛庵(さんぞうがぎゅうあん)
 氏は大沢公民館第3代館長で、
    昭和32年4月1日~41年3月31日まで在職
    
○ 中里正義さん
 長徳寺仮門前、鐘楼前に建碑されています。
  中里青子 名は正義
   「秋風や この手につかむなにもなし」 辞世の句 81歳で永眠

○ 徳本(とくほん)上人 念仏供養塔
  宝暦8年(1758年)紀州日高に誕生。
   25歳のとき浄土宗の仏門に入り、大和吉野の山中で修行を積み修験能力を体得し 徳本上人と崇敬され徳本様と呼ばれました。
  根強く残る農村に伝承されるお念仏の元祖といわれています。
  この供養等の元の場所は、下九沢内出で、県道拡幅の際長徳寺へ移築されました。
   長徳寺の供養等の筆体は、自筆といわれ
  「南無阿弥陀仏 徳本」 とあり その下に 十字の花押(署名の記号)
                    自筆には必ずあります。
市内各地には、13体あり、大沢には五体が確認されています。
1、 上大島通称いぼ神様他石仏郡の中 文政3年
2、 長徳寺境内 文政2年
3、 日々社境内 文政2年
4、 九沢六地蔵石仏郡の左端
5、 宮下、個人の敷地内
       (県道拡幅の際移築されました。)

長徳寺の盆踊り (3)長徳寺の盆踊り

 盆踊りは、先祖の精霊を慰めるため、お盆のときお寺の境内で迎え火を焚いて行われた のが始まりといわれています。
 当時第一次世界大戦後のあおりで、農村は不況の どん底にあえぎ、農民の気持ちもすさみ、世は暗たんたるさまでした。住職の介三師は、 寺を解放し余り当時は行われてはいなかった盆踊りの普及を思い立ちました。
   作詞 大学教授 三苫日出夫先生 作曲 音楽家 日高修先生
 両氏に依頼し、出来上がったのが現在続いている盆踊りの姿です。


(4)名木

 長徳寺境内
 さるすべり(登録番号:153号)樹齢100年以上
 くすの木 (登録番号:154号)樹齢100年以上
 枝垂れ梅            樹齢100年以上

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10.上大島の道祖神 いぼ神様

いぼ神様
(1)道祖神・いぼ神様  ⇒ [Googleマップ]

 上大島に二本松と津久井方面へわかれる三叉路があります。その脇に昔通称いぼ神様と 呼ばれる石仏がありました。
 その昔、一抱えもある榎木の大木が青々と茂る横に いぼ神様はありました。
この神様にお願いするといぼが取れるというので、近郷の 評判になりました。まず神様にお願いしてそばの榎木に「どうぞ神様、私のいぼを 取ってください」といぼをこするのです。毎日参詣して、是を繰り返すといぼはだんだん 小さくなり一ヶ月くらいで消えてなくなり、効果がてきめんに現れました。
 地元の人々はいぼ神様と呼ぶが、「いぼとり地蔵さま」と呼ぶのがいいかもしれません。 全快するとお礼の供物として、飴玉や、団子、季節の果物を自分の歳の数だけ奉納するのが 習わしだそうでした。榎木の大木は、伐採されて今は存在しません。

 この辺の道路拡張工事のため一度ならず再度の移動で大島小学校通学路でもある農道 入口の現在の場所に座しています。石仏は、全部で9体。一番古いのは、宝暦年間 (1751年~63年)で、文政3年(1820年)に建てられた、徳本供養塔(長徳寺の中に記載) もあります。


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11.大沢小学校

    ⇒ [Googleマップ]
頌徳之碑(しょうとくのひ) (1)大沢小学校初代校長

 小松宗三郎先生 頌徳之碑(しょうとくのひ)
 大沢小学校の校門をくぐり、入って右側に小松初代校長の顕彰碑が建立されています。 明治34年4月7日から大正9年3月に勇退されるまで32年間にわたり大沢小学校校長を 努められ、大沢小学校の礎を築いた方です。
 氏は、文久3年7月17日、小田原藩 大久保候の家臣小松富家、ハマの四男として誕生。祖父栄三郎は、小田原藩の寺社掛りを努め、 二宮尊徳翁の教えを数多く受けました。
 文徳赫々足り  師道日に新なり
 一郷の儀表  鐘は斯に在り
 要約 =学徳は、遍き(あまねき) 学問は、日々進む、
     村の発展と先生の教えは村民の心の中に在り=


小学校庭のくすのき (2)名木

 大沢小学校 校庭 くすの木
 樹齢約100年 この木は明治38年(1905年)頃、植樹されたといわれています。 くすの木が多く見受けられるのは、この木の勇姿の力強さに思いを託して、日露戦争出兵兵士の 凱旋記念に小学校や寺、神社に植樹されたと伝えられています。



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参考文献:
 ・相模原歴史人名辞典  座間美都治
 ・資料との出会い物語    〃
 ・相模原の歴史       〃
 ・相模原民話伝説集     〃
 ・さがみはらの地名   相模原市教育委員会
 ・村をつないだ道・坂・川  
 ・さがみはら石仏夜話  つちのえ会編
 ・おおさわ風土記    笹野邦一
             おおさわ風土記刊行委員会
 ・大沢公民館報及び大沢公民館ホームページ

 ※平成19年3月 大沢公民館主催 大沢ウォッチング資料として大沢の大島地区に関する、 以上の資料をまとめる。文中に一部本文より記載。(大沢公民館広報委員)


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