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史跡めぐり むかしばなし

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 ▼禰宜の娘 ▼宇太郎  ▼子守観音 ▼おはんと清吉  ▼大猫ばやし ▼倶利伽羅  ▼鏡の滝
 ▼怪獣ドラゴンス

郷土のむかしばなしを紹介しています


1.大島編

●諏訪神社禰宜(ねぎ)の娘の話

 毎年4月26日は「茶摘正月」といって、川向こうの津久井小倉村の老若男女は 田名大島村に来て茶摘の手伝いをし、大島側から代わりに小倉山に薪を取りにいく ことにしてあった。その26日の夜の、月待ちの晩は皆で語り合い過ごすため男女の 出会いの場になったのも致し方なかった。

 大島の石楯尾の宮(いわたておのみや)(諏訪神社)の禰宜の娘おそよは大変の器量よし、 この晩知り合った小倉の名主の息子は業平かと思うほどの美男子(正体は、大蛇) に恋焦がれてしまった。毎晩人目を忍んで、大嶋坂の坂口での重なる月日は、ついぞ身重の やるせなさ。事の成り行きに禰宜とその妻は、なれるものなら一緒にしてやるべく、 相手の家を訪ね歩くがもとよりどこにも見当たらない。
 不安に思った母親は、坂上の小取り婆さん(産婆)に相談をする。と、産婆は千巻 (糸巻き)に糸を充たし先に針を付け、隠し持たせ娘に男を待つように伝えた。 現れた男は、黄八丈の袴に博多帯、桟留(縞格子のしゃれた柄)の羽織を着、銀造りの脇差、 白なめしの雪駄といういでたちで夜目にも白く光り輝くほどに見えた。娘は、身二つに なったことを打ち明けると、男は足をしきりと地面へこすり付け、困り果てたようであった。 その様子を見た娘は、足が動くのに裏金の音がせぬことを不振に思い、千巻の針を男の 羽織の襟元へ返し針を縫いこんだ。
 すると、男の業相がかわりものすごい地響きとともに大嶋坂を真一文字に滑り降りていった。 娘は呆然と立ちすくみ、それを見ていた母親は、千巻の糸を手繰りながら跡を追いかけて、 ようやくたどり着いたのが下大島の白森稲荷の椎の木の空洞であった。耳を傾けると、 死の瀬戸際のうなり声の苦しい息の中から誰かと話している様子。それは、「あれほど 気をつけるようにいったのに、人間ほど怖いものは無い」「わが身に鉄を打ち込まれる まで気づかず、娘の愛におぼれて一生の不覚をしてしまった。しかし自分の忘れ形見は、 娘の体内に残してきた。それがせめてもの慰めだ」「愚かなこと、子どもは生れ落ちるとすぐに、 田んぼのかえるに食われてしまうぜよ」「ああー」こで、魔性は絶命した様子だった。
 産婆はこの話を母親から聞き、話のとおりに娘に早産させ、田んぼの蛙にすべて食べさせ 事なきを得た。おそよは、回復した後、下大島の大島坂不動尊付近にあった南松山浄禅寺に 子の冥福を祈り尼となって世を終わった。父親の禰宜が調べにいくと空洞の中には大蛇が 死んでおりその脇には、真っ白な狐の毛が散らばっていた。大蛇に意見をしていたのは、 下大島の白森稲荷の天白狐稲荷大明神で、日頃は社の縁の下に住んで乞食の姿をしていた とのことである。


●「やっとこ」宇太郎 山姫に出会う話

 当時名主は「やっとこ」「さっとこ」「ひょっとこ」の三名の下男を使うことが できました。そして大島村の名主萩原氏の召使い「やっとこ」に、宇太郎という者がいました。 「やっとこ」というのは、役男で、名主役としての村役の仕事をしました。「さっとこ」 は作男でお百姓の仕事をしました。「ひょっとこ」は、火吹き男すなわち飯炊き男です。 ひょっとこは、年中火吹き竹でかまどの下で火を吹いているので、自然に口が出っぱってきて、 お面のひょっとこのような顔になったのです。

 或る日「やっとこ」宇太郎は、主人の命で武州高尾山の麓の榎久保山(えのくぼやま: 現在の大戸の奥)までくると、山姫にあいました。山姫は山中に住んでいる美女で、 人間を取り殺すといわれていました。宇太郎は逃げることもできなくて絶体絶命、 なすすべもなく、覚悟を決めて山姫の着物の裾をむんずとつかんだのです。山姫は驚き、 山中を逃げまわり、宇太郎はついに山姫を取り逃がしてしまいました。山姫が逃げるとき にふところから取り出し、宇太郎に投げつけたのは柿の種でした。が、その臭いこと臭いこと。 宇太郎の手の中には、犬の毛のような赤いけがひと塊残っていました。むじなは、 柿の実のある時期は、ほかのものを食べないと言われ、かきの種の混じる排泄物を 投げつけた山姫の正体は、まぎれもなく「むじな」でした。

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2.九沢編

●子守観音

子守観音
 その昔下九沢には、悲しい出来事がありました。
 明治初年の頃、おおきな農家であったその家は、5月の大変忙しい養蚕の季節、近所から 子守を頼んで、家中は「ひき拾い」に夢中でした。子守は、赤ん坊を背負い雀を追いかけて いたが、庭の隅にある古井戸の中に子供を背負ったまま落ちてしまい二人とも人命を 落としてしまったそうです。
 後に、二人の菩提を弔うため庭の井戸の隅に子守観音を建て、供養をしたということです。 今でもる私邸内にはひっそりと子守観音があります。赤ん坊を抱いた珍しい観音様です。



●梅宗寺のつくばい

 以前、大沢地域の石造物を調査している中で、お寺の境内奥に面白い手水鉢 (ちょうずばち)を見つけました。昔の銭形(丸くて、中央に四角い穴がある) に似た石です。ししおどしの竹樋から水が落ちる仕掛けになっています。
つくばい  不思議なことに上下左右に漢字らしい四文字が浮き彫りされています。 上から時計方向に読むと、「五・隹・止・矢」の様ですが、意味が解りません。
吾・唯・足・知  お寺の方に見方を教えて頂きました。中央の穴を口として各文字にくっつけて、 「吾・唯・足・知」とすれば、「われ・ただ・たるを・しる」となるとのこと。 解釈すると、「あれこれ無いものを欲張って欲しがらないで、今ある物品や境遇で満足しなさい。 そうすれば、不平不満の気持ちも湧かず、心豊かな生活を送ることが出来る。」でしょうか。
 このつくばい(蹲踞)と言う語源は、茶室の庭先に置き、茶客が手を洗うときに、 はいつくばう姿態から来ている様です。有名な物としては、京都の竜安寺にあるそうです。
 また、この言葉に似たものを思い出しました。江戸時代の禅僧 良寛さんの漢詩の一節です。
  無欲一切足 有求万事窮~
 これは、松本市壽によると、「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す~」と読み、 直訳すると「欲ばらなければ何ごとにも満ち足りた思いになるが、むさぼる気持ちのある限り 万事が行き詰まる~」つまり、「満足を知ることが、ほんとうの豊かさである」です。 (広報委員駿河:2010年2月編集後記より)


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3.中の郷編

●おはんと清吉のものがたり

おはんと清吉の墓
 おはんは、寛延2年(1749年)6月大島中の郷、権兵衛の長女として誕生。 生まれつきの器量よし、近所の清作の次男清吉と式を挙げることになり兄妹のように 仲良く暮らしていた。
 明和7年(1770年)中の郷の領主がお供を従え領地検分のため、名主の役宅を訪れた。 村人は、不意のことで、大慌てでご馳走を整え、おはんも数人の娘達とお酌を務めた。 おはんのあまりの美しさに領主はすっかり気に入り、翌日名主を呼び、奥女中に取り立て 江戸へつれて帰ると申し渡した。
 村は、おはんの出世を喜び、承諾した。しかし、二世を契った二人は、あの世で仲良く 暮らそうと近くの法性寺へ駆けつけ死出の旅路を選んだ。たまたま、庭の掃除をしていた 上人の目にとまり、お前達のことは、この拙僧(せっそう)に任せよと書院へ行き 「館(やかた)で絹(きぬ)着て玩び女(もてあそびめ)より、寺で麻衣(ころも)の墓守り」 としたため、髪と一緒に殿様へ渡せと言いつけた。村人達は駕籠を2丁用意し、殿様よりも おはんの見送りで大騒ぎ。おはんは、台所で髪を切り上人が書いた紙に一緒に包んで、 殿様の駕籠に投げ入れた。驚く皆を尻目に、二人はお寺の門をくぐってしまった。
 殿様は、旅先の恥を逃げるように江戸へ。残された村人は、生きた心地も無く十日あまり 日を過ごした頃、家老が供も連れず名主宅へ侘びに参った。この醜態が、江戸の大目付に 知れたらお家は断絶し、家来も路頭に迷うので、内分にと詫びたため、村人も家来の熱意を 汲み申し入れを承諾した。おはんは尼となり、清吉は寺男として一生法性寺の墓守りとして 仲良く暮らした。墓は、寺の正門前の墓地に建立されている。


●大猫ばやしの話

 大島村の中の郷、下村のはけ上に、善太郎婆というおばあさんが住んでいました。 主人に先立たれた後は、古い大猫を相手に暮らしていました。この猫は大変利口で、 家に上がるときは足を拭いて上がったそうです。ある時この家の床下から、夜ごと夜ごとに いとも妙なる音楽が聞こえてくるようになりました。楽器と言えば、石と石、木片と木片、 鍋や釜の破片、骨と骨などを打ちつけ、擦り合わせた音で、この世のものとは思われない 音色でした。そして、この音楽に調子を合わせて、一大合唱が起こります。言葉をよく 聞くと「ブッツク、ブッツク、ニャンゴロリン、オツピーヒャラリコ、ハチオウジ、 スッテンテレツク、ザルヨコチョウ」というのです。この家の大猫が、近くに住む 狸・狐・むじな・カワウ、などをあつめての大合奏・大合唱だったのです。一人きりの おばあさんは、たいそう慰められました。近所の若者たちが「この化け物ども」と、 棒や刃物を持って忍んで来ると、ぴたりと音楽はやんで聞こえません。でも、すこしも 害を加えないものが聞きに来る時は、よくこの音楽が聞こえたそうです。

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4.常盤・古清水編

●倶利迦羅竜王造像の原形は何か

 水場ヤツボの淵に建つ小祠の中の倶利迦羅竜王は、頭に角が生え、眼はらんらんと 見開き、体は鱗に覆われ前足と後ろ足が剣に巻きつき今まさに飲み込もうとしています。 神沢不動尊のお堂に安置されている倶利迦羅不動も、元は弁天池にあったようです。 やはり、湧き水や池の水を守るように祀ってあります。
倶利迦羅竜王像  そこで、倶利迦羅不動を『日本石仏事典』で調べてみますと、「インドの伝承ではクリカは 頭に半月を戴く黒褐色の竜王であるといわれる。倶利迦羅竜が剣にまとう形が不動明王の 三昧耶形(密教に於いて仏を表す象徴物)であるところから、この形を倶利迦羅不動と言う。 その像容は、磐石上に立つ利剣に四足をからめて巻き付き、竜王が剣先をまさにのもうと するもので、その背後には火炎が燃え上がった状態で表現される。~倶利迦羅不動の 石仏造立の目的は、滝口や清水の湧出する水辺などに祀られていることからもわかるように、 水神としての造像がある。~浮き彫り像は、水源地の守護神としての造立である ~水口の水神~不動明王を本尊とする寺や修験道の行場に見られる不動信仰に基づいた ものがある~広く各地で造像されたものは江戸中期以降のものであり、修験道の行場や 不動を祀る寺の境内、あるいは滝や湧水地などの丸彫り像や浮彫り像が主である。」 (注1)と説明されています。
 竜は十二支の一つです。 この十二支には、子・丑・寅・卯・辰・巳・未・午・申・酉・戌・亥の12種があり、 覚えやすいように動物の鼠・牛・虎・兎・龍(竜)・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・猪を 当てられています。古代中国の殷時代に甲骨文で十干と十二支を組み合わせて日付を 表すのに用い、戦国時代になり年・月・時刻・方位も表すようになりました。

 ここで取り上げる竜の特性は、"陰陽の陽、五行の土、方角の南東微北、月の3月、 時刻の7~9時"です。十二支の中で唯一、想像上の動物です。
 そんな中、生物学者であり民俗学者である南方熊楠(慶応3~昭和16年)の『十二支考』 (1914年から虎を最初に雑誌太陽に連載された十二支(牛を除く)の動物にまつわる話) の中から、田原藤田竜宮入りの話を拾い出してみました。「欧州でも支那でも、竜の形状は 多く現世全滅せる大蜥蜴の遺骸を観て言い出したは疑いを容れず。支那や日本の竜は、 空中を行くといえど翼なしと。~支那でも黄帝の世に在った応竜は翼あった。」 (注2)とあるように、竜の姿は、蜥蜴に似せていて四脚と鱗があります。ちなみに、 蛇には足がありません。爬虫類から亀の一群を除き、残った諸群の足のあるものを竜 (有鱗卵生四足から亀を除外)、足がないものを蛇(卵生無足)としています。 また、蛙は無鱗卵生四足です。
 倶利迦羅竜王の形は、やはり足があるので蛇ではなく竜といえます。支那の竜形の詳細は、 『十二支考』の中に、『本目網目』の引用として、「竜形九似あり、頭駝に似る、角鹿に似る、 眼鬼に似る、耳牛に似る、項蛇に似る、腹蜃に似る、(蜃は蛇に似て大きく、角ありて 竜状のごとく紅鬣、腰以下鱗ことごとく逆生す)、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり、 背八十一鱗あり、九々の陽数を具え、その声銅盤を戞《う》つがごとし、口旁に鬚髯あり、 頷下に明珠あり、喉下に逆鱗あり、頭上に博山あり、尺水と名づく、尺水なければ天に昇る 能わず、気を呵して雲を成す、既に能く水と変ず、また能く火と変じ、その竜火湿を得れば すなわち焔《も》ゆ、水を得ればすなわち燔《や》く、人火を以てこれを逐えばすなわち息 《や》む、竜は卵生にして思抱す〉(思抱とは卵を生んだ親が、卵ばかり思い詰める力で、 卵が隔たった所にありながら孵《かえ》り育つ事だ。」(注2)

 倶利迦羅竜王は、『十二支考』の中でも、「倶梨迦羅竜王支那で黒竜と訳し、不動明王の 剣を纏《まと》い居る。これも梵名クリカラサで一種の蜥蜴だ。」(注2)とあります。
 このように倶利迦羅竜王のクリカラは、蜥蜴を梵名で言ったクリカラサから来ていると いわれます。
 また、竜王が巻きつき飲み込もうとしている剣はクリカラ剣といい、 竜が剣を飲み込む姿は、煩悩が払拭されることを意味し、倶利迦羅竜王は、人間の煩悩を 払う神様(仏様)ということになります。
(引用文献)
 (注1):庚申懇話会編 『日本石仏事典』 雄山閣出版、昭和50年、51ページ。
 (注2):南方熊楠著 『十二支考(上)』 岩波書店、2003年、159、144~145、184ページ。
                   こぼれ話 23年3月掲載 (駿河)


●鏡の滝

鏡の滝  現在の水量は多くはないが、神沢不動堂付近の北方に鏡の滝がある。この名の由来は、 村社日々神社の9月17日の祭礼には、神輿がこの滝に渡御することになっていた。 (滝降の神事と呼ぶ)伝承によると、ある年の神事の際、この滝から一枚の鏡が出た。 円形で直径三寸九分、裏には鳥蝶の模様があった。人々はこれを天照皇太神と崇敬して、 日の宮に合祀し、滝を鏡の滝と呼び、付近の土地を神沢と称するようになった。

 この鏡には、さらに伝承がある。昔、下方(南茅ヶ崎方面)の商人が海の産物を船に積んで、 相模川をさかのぼり津久井の市場で売りさばき、帰りに木炭を仕入れて下ってきた。 あるとき博打に手を出し有り金をすってしまい、その腹いせに日々社のご神体の鏡を盗み出し、 神沢の滝壺の辺まで来たところ、急に身がすくみ自由が利かなくなってしまった。 驚いて思わず、鏡を滝壺の中に投げ込んでしまった。そして、氏子の人々に心から謝って、 元の場所に安置したところ、身体は元のように元気になり無事に帰ることが出来た。


●怪獣ドラゴンスのはなし

 その昔、古清水、八坂神社の境内には松、樫(かし)、欅(けやき)の大木が 生い茂っていました。その高さは三十メートルもあったでしょうか。大沢小学校からも 巨木の雄姿は遠望できたそうです。いつのころからか、その大木にドラゴンスという 怪獣が住みつき、夕方になると下りてきて、子どもをさらって食べてしまう。 こんなうわさが流れ、夕方遅くまで遊んでいる子どもはいなくなったそうでした。 その昔話は、今考えると夜間に木々を飛び回るムササビではなかったかということでした。

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