田名の史跡めぐり

  塩田・新宿 MAP


塩 田

新 宿

 
塩田地区

 塩田集落は、田名の南東のはしに位置し、東は当麻(たいま)(*)地区に接しています。集落のほぼ中央には八瀬川(やせがわ)(上流は紅葉川(もみじがわ)《やくばのかわ》と呼ばれています)が流れ、また湧水(ゆうすい)も豊富で小さな流れをいくつかつくっています。水と水田に恵まれた塩田地区は、古い歴史を持つ集落です。集落の北には、集落の氏神(*)天地(宮)社が祭られています。



1.入定穴(にゅうじょうあな)
 「岩きり場」の展望台を後にして、段丘の緑豊かな崖(がけ)添いの歩道を散策すると、やがてバス通りに出ます。バス通りの手前、相模川を望む崖(がけ)に「人定穴」といわれる横穴が掘られています。しかし、この穴は、相模川を望む段がい絶壁(ぜっぺき)に掘られていることから見ることは出来ません。
 人定という呼び名は変わっていますが、仏教の修業(*)の一つに、入定といって自ら入滅(にゅうめつ)(*)する方法があり、この穴も修行僧によって使われたものと考えられています。

 また、この地区(今はLPガスの事業所周辺)は相模川を見下ろす地点として、きわめて風光明媚(ふうこうめいび)であることから、明治時代にイギリス人の別荘が建てられました。大正時代に所有者は変わりましたが、建物はつい最近まであり、地域の人々からは 「異人館(いじんかん)」の名で親しまれていました。

2.向得寺(こうとくじ)
 バス通りをもどり、田名病院の先を右折すると、左手の辻で道祖神とお地蔵様に出会います。さらに進むと左手の小さな森の中に、向得寺(こうとくじ)の山門(*)が見えます。
 境内には、三本の見事なホオノキがあります。 

5月には白色で芯が赤っぽく香り高い大輪の花をいくつも咲かせます。真下(ました)からは見えませんが、少し離れたところから見ると大きな葉と花がバランスよく目に映(うつ)ります。秋には、こぶし大の実が熟し表面の皮がわれて、多数の紅熟(こうじゅく)した美しい種子(しゅし)が顔を出します。その頃、木の下には小豆ほどの艶(つや)のある紅色のなんとも美しい種が落ちています。たまに実ごと落ちていて、むいて中の美しい種を取りだすのも楽しいものです。
 この本の葉は、飛騨(ひだ)の高山では味噌を包みホウバミソをつくるのにつかいます。ホオノキは万葉集では「ほおがしわ」として二首詠(よ)まれています。
「皇神祖(すめろぎ)の遠御代御代(とおみよみよ)はい敷き折り(しきおり) 酒飲みきといふぞ この厚朴(ほおがしわ)]巻十九、大件家持(おおとものやかもち)。
 境内(けいだい)によく繁っているので、冬から春にかけ林の中のヤブツバキにはメジロがやってくるので、鳴声を聞くチャンスがあります。
 向得寺の本尊は、観世音菩薩で、隣の当麻にある無量光寺(むりょうこうじ)(*)の末寺(まつじ)に位置付けられています。お寺は、室町時代(むろまちじだい)(*)に建てられたといわれていますが、その後、戦乱でさびれ、城山城主(*)の内藤氏(*)によって再建されたと伝承されています。



3.塩田分校跡(しおだぶんこうあと)
 バス通りを望地(もうち)に向かってもどり、塩田(しおだ)バス停の手前の信号を右に進み、八瀬川(やせがわ)を過ぎると右手に塩田児童館があります。


 この児童館の、道よりのところに塩田分校の校舎(こうしゃ)が建っていました。1886(明治19)年にそれまで陽原(みなばら)の南光寺(なんこうじ)と滝(たき)の宗祐寺(そうゆうじ)にあった田名学校が、堀之内の明覚寺(みょうかくじ)に合併したとき、子供達の通学の便を思い建てられましたが、後に分校は閉鎖されました。児童館の八瀬川よりの一角には、双体の道祖神や1788(天明8)年に造られた庚申塔・念仏供養塔等が建っています。 児童館の八瀬川よりの一角には、双体の道祖神や1788(天明8)年に造られた庚申塔・念仏供養塔等が建っています。

4.船乗り地蔵(ふなのりじぞう)
 分校跡を過ぎ、しばらく進むともうち望地方面から来た道とこう交さ差する橋のたもとのさんさ三叉ろ路に行きつきます。この三叉路にもいくつかの石造物があります。1823(文政6)年の六字名号塔(*)や、1776(安永5)年に田名をはじめかみみぞ上溝やしもみぞ下溝そしてくざわ九沢の信者によって建てられたでわさんざん出羽三山く供ようとう養塔(*)などです。そのなかに、船に乗った珍しい地蔵様を見ることができます。この地蔵様のいわれはよく分かりませんが、相模川が近いことから、しゅう船うん運(*)あるいはぎょろう漁労(*)に関係する信心深い人によって造られたものと思われます。 しかし、残念なことにこの橋のたもとの三叉路は、これから行われている区画整理によって大きく形を変えることになっています。



5.天地社(てんちしゃ)
 お地蔵様をあとにして、三叉路を右に進むと、途中、農協の緑化センターヘ曲がる道がありますが、そのまま進むと、やがて上の段丘(だんきゅう)へ登る坂道へとさしかかります。坂の上の塩田原では工業団地を造成するための発掘調査が進められています。この坂の左側に塩田(しおだ)の天地社(てんちしゃ)があります。神社の手前には今も豊富に湧(わ)く清水の小さな池があります。


 入り口の右側の崖(がけ)の木々には、フジがまきつき、四月になると深緑にも萌える若葉のあいまに紫色のフジの花がいくつも垂れ下り、境内のサクラの花の後をうけ継いだ春の演出は、訪れる人の心を優しくなごませてくれることでしょう。万葉集にフジの歌は、二十一首あります。「藤波(ふじなみ)の花は盛りになりにけり 奈良の都を思ほすや君」巻三、大伴四綱(おおともよつな)。
 秋には、草の間から白色のシラヤマギクが小花をこんもりとつけ顔をのぞかせています。ここでも、やおらかい秋の日差しをうけて、クサギの青い実と紅紫色のがくのかたまりが三十ちかく鮮(あざ)やかに照り輝き、ひときわ美しく来訪者の目をひ惹くことでしょう。境内の左手には、クスノキの大木があり、十一月も半ばを過ぎると小豆色(あずきいろ)の黒色の実が熟(じゅく)し、実を食べにくるヒヨドリを見ることができます。

 1726(享保11)年の記録には、塩田天地大明神(しおだてんちだいみょうじん)とあり、堀之内の妙(みょう)(明(みょう))覚寺(かくじ)支配(しはい)とされています。かつて集落内にあった日枝神社(ひえじんじゃ)と御獄社(みたけしゃ)(*)も一緒に天地宮(てんちぐう)の社殿の中に祭つられています。また、境内の左手には元禄(げんろく)年間と宝暦(ほうれき)年間の庚申塔(こうしんとう)や、享和(きょうわ)年間の御獄社(みたけしゃ)、安永(あんえい)年間の天地大明神(てんちだいみょうじん)の御神燈(ごしんとう)などの石造物も保存されています。



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新宿地区

 新宿集落は戦国時代の終わりごろに聞かれたと思われる宿場町で、田名の東はし、上溝(*)との境に位置しています。  新宿の地名が示す通り、街道(かいどう)に添って家々は建ち並び宿(*)としての景観のおもかげ面影を今に伝えてします。


6.二十六夜塔(にじゅうろくやとう)
 塩田天地社(しおだてんちしゃ)のわきの宮坂(みやさか)を登り、しばらく進み「上溝(かみみぞ)バイパス」の手前の交差点を左折し、約200メートルほど進むと横浜水道の道を利用したジョギングコースに出会います。
 さらに400メートルほど進むと、新宿(しんじゅく)の集落(しゅうらく)に着きます。

集落の塩田よりややしもて、家並みの中に観音堂と新宿の自治会館があります。
今の建物は火災にあって建て直され、自治会館と一緒になっています。この境内に1813(文化(ぶんか)10)年の二十六夜塔と、1784(天明8)年の六地蔵そして道祖神などが集められています。二十六夜塔についてはすでに説明しましたが、半在家(はんざいけ)と同様女性の手でこの塔も建てられたものです。二十六夜の信仰は、近隣に類例の少ないもので、この石造物もまた貴重(きちょう)な文化遺産といえます。年号は不明ですが、庚申塔(こうしんとう)には「田名」を「棚(たな)」と記した例を見ることができます。


7.地蔵様(じぞうさま)
 観音堂を後にして、そのまま進むと半在家(はんざいけ)から上溝(かみみぞ)に向かう道に交差します。

 この十字路の左向かいに、道祖神(*)や1815(文化(ぶんか)12)年の地神塔(じしんとう)(*)とともに地蔵様(念仏供養の一体は1695〈元禄(げんろく)8〉年のもの)が建っています。
 道路の拡張とともに、その場所を変える石造物が多いなか、この石の文化遺産は、信仰心の厚い個人の方の屋敷の一角に保護されています。

8.稲荷社(いなりしゃ)
 地蔵様の交差点を右折して上溝へ向かうと、右手に稲荷様のやしろがあります。
  この稲荷様は、新宿集落で管理している神社です。
 やしろの横には、1792(寛政4)年に建てられた石灯籠(いしどうろう)が二基あります。一基には「稲荷大明神永代常夜(いなりだいみょうじんえいだいじょうや)」と刻(きざ)まれ、残りの一基には「秋葉大権現(あきばだいごんげん)」と刻まれています。やしろは平成2年に建て変えられ、境内も整備され新しくなりましたが、左右のいちょうの木が、かつての森の面影を残しています。


9.渡辺玄泰(わたなべげんたい)の墓
 稲荷社を後にして上溝(かみみぞ)へ向かい、酒屋さんの先を左折すると右手に大きな墓地があります。
この墓地が渡辺家の墓地で、「村鏡院玄廊泰翁居士(そんきょういんげんろうたいおおこじ)」ときざまれた右手の小さな墓石が玄泰(げんたい)のものです。
 玄泰は、江戸時代の終わりの頃1847(弘化4)年、飢饉(ききん)と重税で苦しむ人々を救おうと、駕籠訴(かごそ)(*)計画しましたが捕らえられ、牢屋で亡くなった(墓碑銘(ぼひめい)は1849《嘉永2》年)といわれています。
 玄泰(げんたい)の救命(きゅうめい)にほん走した、子供、立庵(りつあん)の苦労の話も残っていますが、なにより戒名(かいみょう)の「村鏡(むらのかがみ)」や「廊(ろう)」の文字に、玄泰の勇気ある行動や苦難が示されていると思います。
 右手の大きな墓石は、子孫、弘庵(こうあん)のものです。弘庵は医者でしたが、田名村の村長としても地域の発展に貢献しました。


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